幸せなら手をたたこう!

もうすぐ2歳になるちびっ子と毎日一緒にいる。

まだ本格的に喋り始める前のこの時期の乳児と言うか幼児というか

宇宙人のようなちびっ子が私は好きだ。

言葉で通じあえないけれど、心は通じ合ってる。テレパシーの世界。

いや、言葉はだいたい理解しているけどコミュニケーションの手段は

明らかに言語ではない時期。

一緒にいて見つめているだけで、「あぁ不思議な生き物だなぁ。」

「あぁ、なんて可愛いのだろうなぁ。」と我が子、という次元を越えて

一つの命として可愛らしく愛おしく感じてしまうのは私だけなのだろうか。

 

そんな心から可愛い時期のちびっ子なので、一挙一動に見入ってしまう。

または、それとなくぼ〜っと観察してしまう。

ある日、自分が積んだ積み木がうまく行ったとかそういう類いのことで

ちびっ子が手をぱちぱちして喜んでいた。

その仕草をみてふと、「何故手をたたくんだろう?」と思い当たった。

もしかすると、なんかが成功した時にわたしが「すごいすごい〜」といって

手をたたいたからかもしれない。それで何かがうまく行ったときや、ご機嫌の

時には手を叩いて喜ぶ、というボディランゲージになったのかもしれない。

だけど、どうして手を叩くことが嬉しいにつながるんだろう。

嬉々として手を叩きながら積み木を積む、美味しいと喜ぶ、そんな娘の

姿にふと「幸せなら手をたたこう」の歌がよみがえった。

 

「幸せなら手をたたこう。幸せなら手をたたこう。幸せなら態度でしめそうよ。

ほら、みんなで手をたたこう。」

 

幼稚園かなんかで歌ったときには「なんで幸せなら手をたたくのか?」と

疑問でしょうがなかったこの歌。

なんかわからないけど、目の前の娘をみていて。そうだ。てをたたこう!と

深く頷けた。

しあわせなんだ。うれしいんだ。おいしいんだ。よかったな!

ぱちぱちぱち。

いいじゃないか。あきらかにポジティブな気持ちになる。

 

物事にはきっと意味の分からない部分で意味があることがあるんだろう。

 

手を叩く。

そういえば、日本ではおめでたい時に一本締めってある。

「よ〜。ぱん」って手をたたく。

マクロビオティックでも、柏手を打つ音は波動がよいので

怪しいかもしれませんが、玄米を炊く前に玄米の上で

柏手を打つとよい。なんて話も聞いたことがありますし、実際

わたしそれ、やってます=)あは。

拍手喝采、拍手ってやっぱり素晴らしい時にしてしまうもんだし、

手のひらを合わせて生み出される音って何かとても良い気があるような

気がする。

 

手のひらと言えば、どうしても思い出すのはおむすび。

雑菌がどうとかの関係でラップをしておむすび作ったり

はたまた型を使う方もいるようだけど、わたしはやっぱり

温かな御飯をしっかり手のひらで結んだおむすびがおいしいとおもう。

そして、そういえば子供たちが昔、よその家のおむすびはあまり

食べられないといっていたのを思い出す。

きっと手のひらで結ばれるものだから、自分のお母さんとよそとでは

気が違って合う、合わないっていうのもあったんじゃないだろうか。

なんだか繊細な話になってきたけど、てっぱり手のひらってなんだか

すごい。

 

手のひらから生まれる音。生まれる味。

手と手を合わせて祈る幸せ。手と手を合わせて拍手。

ただ便宜的に手を使ってきたというだけではない何か。

 

目の前の無垢な娘の嬉々として手を叩く姿をみて、

頭で理解出来ないことを胸の奥深くで受け取ったような

気持ちがしました。

 

私はこの手を使って何を世の中に送り出せるのだろう。

そして、子供たちはその手を使ってどうやって世界とつながるのだろう。

 

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