フルーツ天国

何を隠そう私はフルーツが大好きだ。

子供の頃はフルーツだけ食べていきていけたら

どんなに幸せかと何度も思ったものだ。

そんなわたしにここブラジルは念願の

フルーツ天国を実現してくれた。

年中絶え間なく果実が実る様は見るだけで心躍り

ごろごろと収穫できる南国のフルーツのふとっぱらには

よだれがでる。

どの木も食べきれないほど果実をぶら下げ繁殖する様子は

ブラジルという国の生命力の強さを思い起こさせる。

あぁ素晴らしきかなフルーツ天国。

今日はそんなフルーツをシェアしたいと思う。

まずはバナナ、どこでもなってる。道路にも庭にも道ばたにも

バナナの木。バナナはこの国で筍のようなぞんざいで、根でどんどん

ふえるらしい。私はバナナの葉が大好きだ。そして紫色の重たげな花が

実に成る頃も大好きだ。あの花があんなたくさんの房になるなんて

本当に不思議だ。なんといっても不思議だ。神様はすごい。

そして忘れてならないのがマンゴー。

今はこんな風にどこでもざらざらと青い実を付けている。

今年は去年より実の着くのが早い。どうやらブラジルも異常気象で

今年は例年になく暑く乾いているせいかもしれない。

マンゴーも道ばたに、庭に、街路樹に、どこでもある。

マンゴーが街路樹ってとても素敵だとおもう。

そしてこれまたどこでも生えて来るパパイヤ。

パパイヤって不思議な木で、実は木ではないらしい。

草というか、そういう種類らしい。

なんだか知らないがこれもどんどん実をつける。そして

コンポストから勝手にどんどん生えて来る。一年もあれば

いつの間にか木になって実を付けてくれる恐るべき早さで成長する。

そんな訳でうちのフルーツかごはこんな有様になる。

ブラジル独特のフルーツも忘れてはならない。

ジャボチカバというすごくへんちくりんなフルーツ。

ある時一斉に木の幹に真っ白な綿毛のような花がさいて

それがこんな感じでフルーツになる。殆ど病気にみえるほど

グロテスクな様子はさすがブラジル。こんなフルーツの成り方って

あり?と目を疑いたくなる。

これが葡萄のような濃い紫に変わったら食べごろ。

しかしこれがまた美味しくてやめられない。

しかもこの木が年中咲いて年中実を付けて、を繰り返している。

かなり働き者なのだ。

友達の家にいくとだいたいどの家にもフルーツの木がある。

ブラジルに家を持っていたらフルーツの木を植えないなんてあり得ない。

友人の家にはこんな風にグレープフルーツがたわわになっていた。

しかもこのサイズ。大人の頭ほどもある。ほっといてもこんなのできるらしい。

うらやましい。

ちなみにピンクグレープフルーツだった。文旦ほどの大きさの

グレープフルーツ。中もそのまま大きかった。

まるで大男のいる国にやってきたみたいに何もかもでかい。

きっと原種に近かったのだろう。何故か苦みもつよくって

それがいかにも野生的でわくわくした。

まだまだあるブラジルのフルーツ。

アセロラはこれから旬を迎えるし、アボカドは山ほど食べて

次のシーズンを待っている。

そして実は年末から私達はマンゴーとアボカドとアセロラと

ジャボチカバとピタンガというフルーツの木がある家に住む事になった。

ますます天国に近くなるブラジルライフ。

今から収穫が楽しみでならない。

 

馬と男子

最近双子が始めたな習い事、乗馬。

この辺りではまだ車と一緒に馬が走っているし

近所の牧場にはカウボーイがいて馬でその辺を走ってる。

馬って以外と便利らしい。

もちろんそんなカウボーイを横目に馬に乗りたくなった

双子。近所に乗馬教室を見つけ通い始めました。

いよいよ夏に近づいてお日様照りつける赤土の道を

赤ちゃんをおぶって散歩がてら歩いていきます。

この暑さの中、水筒は必須です!

最近のお気に入りはライムの酵素ジュースです。

そんでもって歩いていくと、桑の実を発見しもちろんつまみ食い。

もしも〜し人んちの桑の木だから、あんまり引っ張らないの〜;)

そして道すがら綺麗な石探しが始まったり、面白い鳥を

見つけたり、人の家の番犬にからんだり。。。

「すみませ〜ん、遅刻しますよ」

ちなみに、近所にあるこの川には野生のカピバラが住んでいる

ので時々河原でたむろするカピバラの大群に出会う事ができます。

それは大変かわいいので遅刻の価値あり、としておきましょう=)

そんな寄り道、草道の末歩く事30分ほど

いよいよ到着。

早速馬にまたがり練習開始。

なぜかいつも馬は2頭大きいのと小さめのロバ的なのとを

用意され、二人とも大きい方のかっこいい馬に乗りたいので

ちょっとした小競り合いがありつつ、最近は交互に乗る事で

合意に至っております。

やっぱりかっこいい馬に乗りたい男子。ちっこい馬も

なかなかかわいいのにね。

ちなみにこの馬はちっこい方の馬の「ホビーニョ」。

まだ始めて一ヶ月ほどなのに、毎回1時間ほど一人でたっぷりと

馬にのせてもらい、ぐんぐん上達している模様。

そんなお兄ちゃん達を尻目に、一番下のちびくんは

牧場を駆け回る。

そしてそれを追いかけるわたし。

あぁ,男の子のお母さんって体力勝負だったんだわ。と

思い出す今日のこのごろなのであります。

 

一歳

雨戸の隙間から漏れる光が今日も朝が来た事を知らせる。

光の具合からするといつも起きる時間はとっくに過ぎている

ころだ。

いつもの週末の朝。けれどこの隙間から漏れるかすかな日差し

しかない薄暗がりの寝室が今日はひときわ懐かしい。

ユニオの誕生から丁度一年。

あの子が生まれたこの寝室,このベッドのうえで

今日もあの日のように朝を迎えた。

しばし余韻に浸るように思い出の糸をたぐるように

差し込むわずかな光を眺めるともなく眺める。

いつもの朝が何回も巡ってやってきた,特別な朝。

まだ家中が静かな中、ユニオと主人と私と三人だけの蚊帳のなかで

今はずっしりと重たい頭にむっちりと元気な四肢が育った

あかちゃんを抱きしめる。

なんとなくそんな気配に気がついたのが「んっんっ」と寝返りをうって

おっぱいを探る赤ちゃんにおっぱいをあげながら

まだまだ赤ちゃんの匂いのする我が子の頭の匂いをかぐ。

真っ赤で暖かく私の胸の上で丸まるように乗っかっていた

あの小さな赤ちゃんは今ではすっかり大きくなり、ただ

にぎりしめるばかりだった小さな手はふくふくと育ち

今では何かを掴もうと好奇心を全開にしている。

一歳。

当たり前の、いつもの毎日を繰り返して、いつもと

変わらない部屋でいつもと変わらない人たちといつものように

迎えるその日は毎年いつになっても時空を超えて特別な場所へ

私達を連れて行ってくれる。

毎日何を食べて,どんな物を見て、何を思って、何を感じて

どんなふうに過ぎていったの?

繰り返す日々の中でこの一年の節目に見せる子供の姿が,

その全てを物語ってくれるかのように感じる。

「あぁおおきくなったね。」

私のおっぱいで、家族の中で,色んな音の中で

色んな人たちの中で、色んな国の狭間で、色んな味と色と風の

中で、全ての物を栄養にして全ての物を吸収してあかちゃんは

大きくなった。

こういう風にして私もまたお母さんとして一年たった。

そしてユニオの一歳の誕生は私達の新しい家族の一歳の

お祝いでもあった。

 

特別な朝を味わいながらもいつものように一日が始まる。

朝ご飯を食べ、洗濯をし、ふざける子供をたしなめ,

外でははしゃぐ声が聞こえ赤ちゃんは私のまわりを

這いずり回る。

そんななかでも「マッマッ?」「ダイダイ〜」と

言葉にならない言葉を話し始めている赤ちゃんの声を

きくたびに「あんなに小さかったのに」とその日は一日中

暮らしの風景の端々で1歳になる息子の成長の足跡を

辿るように過ごした。

けれど特別な気持ちは抱きつつも特別な事をする予定はなかった

1歳の誕生日。

唯一ユニオが初めて食べるケーキは我が家の定番

寒天ゼリーケーキのフルーツポンチに決定していたのだった。

一日遅れて家族全員が揃い、待ちにまったケーキを食べることになり

外で遊んでいた双子を家に戻るようにと呼びにでると

この素敵な天気の昼下がりに誘われるように

同じコンドミニウに住むご近所さんたちが庭に集まっていて

思いがけずみんなでユニオの誕生を祝ってもらうことになった。

近所の仲良しも集まって子供たちは大喜び。男の子の多いこの

コンドミニウの悪ガキチームにユニオが仲間入りする日も

そう遠くないのかと思うと嬉しいような恐ろしいような

複雑な気分がした。

大人達は飛び入りで楽器を持ち寄りギターやタンバリンを片手に

ブラジルの誕生日ソングを歌いだす。私はこういうブラジル人の

陽気でフレンドリーな所が大好きだ。

手拍子に歌声に笑い声に、かけ声に包まれて、沢山の子供たちと

大人とキラキラの太陽に見守られた1歳の誕生日。

いつもの休日が特別な休日に変わる瞬間。

ひとしきり歌い終わっていよいよバースデーケーキを

分かち合う。

ブラジル流のチョコレートケーキではなく、見た事も無い

ゼリーのケーキにブラジルの子供たちはしばし呆然としつつ、

誇らしげに「これうまいよ!」と自慢げに話す双子達。

密かにみんなとわけたくないくらいゼリーケーキが大好物

な長女にブラジルでは貴重な白玉をゼリーケーキよりも

楽しみにしている次女。ブラジルの子供とは対照的に

我が家の子供達は食い入るようにケーキに熱い視線を

送ってる。

白玉を見た事がない子は白玉を指差して

「そのゆで卵も食べた〜い」と言ってるし「もちって何?」と

初めて食べる白玉に興味津々のブラジルお母さん達。

ブラジルではほぼ見かける事の出来ない砂糖を使わない

デザートという事でも話は盛り上がる。こんなふうに

よその国の味、知らない料理で世界がつながるのも外国に

いて楽しいことの一つだ。

けれどそんな中自分が主役だと気がつきもせず、

わんさと集まった人の輪のまん中で物珍しそうに

ポンチの中のゼリーやイチゴをほおばるユニオ。

気がつけば私達は誰も知らない何も知らないブラジルで

こんなたくさんの人からの祝福を受ける誕生日を

迎えていた。

赤ちゃんが運んできてくれる幸せのひとつはこうした

新しい人とのつながり、世界との出会い。

この無邪気な存在がこれからも沢山の世界に出会うように

私達も彼らと共に歩みながら出会う世界を楽しみに

している。

Sítio その3 乳搾り

田舎での一日はあっという間で怒濤のように夜が来て、

焚き火を味わう間もなく子供たちは眠りについた。

ようやく静かな火を囲んで大人はしばし談話にいそしみ

眠りこけるともう既に朝だった。

恐るべし子供たちはすっかりエネルギーチャージされ早朝から

かけずり回っている。また一日が始まった。

そんな姿を遠目で見ながら「一体あの体力はどこから来るのか?」と

溜息と微笑みを交えて友人と見守る。男の子のお母さんってのは

体力勝負なのだ。

元気な子供たちと同じく田舎の朝は早い。

早速近所のおばさんが自分の家の牛の乳を搾る時間だと

いうので参加させてもらう事になった。学校の体験学習の乳搾り

とは一風違うリアルな体験。

赴いてみるとおばさんは既に庭にいる子豚と鶏にえさをやり終えて

いて、次は牛に餌をあげる為のサトウキビを畑から刈り取り

担いで帰ってきたところだった。

静かな佇まいにマッチョな風貌、言数少なく手際よく

力む事無くそれでいてスムーズに事を運ぶ恐るべし達人おばちゃん。

この色の黒いがっしりした体格のおばちゃんは何でもやる。

あるときはクリスマスか?と思わせるほど大きなバナナの木を

一本かついで道を歩いていたらしい。

田舎の女性は強くて働き者なのだ。

そして家畜の世話から畑の事まで良く知ってるという知恵者でもある。

そんな知恵者でありながらとにかくタフなこのおばちゃんは

大きな体に締まった筋肉とふくよかな乳房をぴちぴちの服に

押し込めて既に50歳は越えていそうなのに

セクシーさを忘れない辺りブラジル人女性らしくて印象的だった。

家畜の世話とておしゃれは忘れない。

豚や牛や鶏の為に朝6時頃はにサトウキビ畑からサトウキビを

とって来て鉈で一口にカットする。その様の手慣れた事。

高級中華料理店の包丁さばきのようにぬかりなく

子気味よい音が辺りに響く。

 

穫れたてのサトウキビを刻みながら何も言わずにザクザクと皮をむき

おばちゃんはおもむろにサトウキビを私達皆に配ってくれた。

朝ご飯前の子供たちは夢中でするめのごとくしゃぶりつく。

甘くて元気な味がしたたる。

いよいよ牛のお母さんに餌を持って乳を絞りにいく。

これまたこなれたワザで牛の後ろ足を縛り、ささっと乳房を洗い

あっという間におばちゃんは乳を絞りだした。

「じゅっじゅっ」と勢いよくアルミの缶にお乳が湯気を出して

集まる。

子供たちはチョコレートパウダーの入ったアルミのカップを手に

順番を待つ。

おばちゃんは次々子供のカップにお乳を搾ってくれる。時々子供たち

が一緒にしぼってみてもおばちゃんのような勢いで乳を搾る事は

なかなかできない。乳搾りは見るとやるとでは大違いなのだ。

暖かな牛の体温で湯気の立ち上るミルクがカップを一杯に

満たしていく。

できたてほやほやのホットチョコがひんやりした田舎の朝に心地いい。

私はお乳をチョコレートなしで飲んでみることにした。

牛乳の概念が覆る。これはおっぱいだと感じた。

おっぱいは牛乳とは別物なんだ。これは大発見だった。

これは確かにあかちゃんにあげる為のものなんだとはっきりわかったのは

自分も授乳中だからなのだろうか。

癒されるような、満たされるような滋養の味がする。

お母さんの愛を感じるような乳の味。美味しいような

美味しくないような味。確かに栄養がたっぷりな感じがする。

これで牛が育つというのが感覚でわかる。

暖かな自分のおっぱいの味を想像しながら目の前の牛のお母さんの

おっぱいを味わいながら不思議と私達が別物に思えなかった。

私達がお乳を搾ったあとには、お母さん牛にサトウキビの御飯をあげて

次は子牛がおっぱいを飲む。そうするとまたお乳がよく出るらしい。

そんなシステムだって人間とおんなじだ。

お乳を搾らせてもらう時も、お乳を引っ張るとおっぱいが張ってくる

ような感じでおっぱいがでる。子牛がおっぱいを飲んでる様子も

まるで我が子と同じじゃないか。

そう思っていると子牛に触発されたのか我が家のあかちゃんも

私のおっぱいにしがみついておっぱいを飲み始めた。

牧場で牛の親子と共に「あぁ、お宅もですかぁ」という感じで

授乳するのもなかなか悪くない。妙な親近感が漂う牛小屋の朝。

 

昨日の祭りの牛の肉料理といい、この牛のお乳といい

本物の食べ物には命をはっきりと感じたのだった。

肉も,ミルクも命でできているんだ。

ブラジルに来て初めて食べた穫れたてのマンゴーやバナナとも

ある意味で質は違わない。

植物か動物かの違いで命の生々しさはどちらも一緒なのだ。

一言で言えば「生々しい」。

命はちょっと気持ち悪いくらい生々しいのだった。

それを食べるという事が気持ち悪くもあり、気持ちよくもあり。

生きるってことはどっちもあるってことなのかと思ったのだった。

そんな命が枯れる事無く一年中わき起こっている国が

ここブラジルなのだ。

 

ともあれ人生初の乳搾りも無事に終え、あっという間の

一泊二日を終え、電気のない家から家路に着いた。

楽しかったいろいろな思いではさておき,早速洗濯物で

てんやわんやとなりあっという間に夜になった。

その夜は双子と末っ子、我が家の男の子3人と一緒に久々に

バスタブにお湯をためて入ることにした。

もう次は10歳になる双子はいつまでこうしてお風呂にはいって

くれるだろうか?

皆気がつけばうんと大きくなってお風呂はとても狭くかんじられた。

しばしそんな感慨に耽っていると双子の一人が私のおっぱいをしげしげと

見てふと何かに気がつく。

「ママ、そのおっぱいあと2個同じのがついてたら牛になれるよ。」

「。。。」

「いや、ならなくていいけど。。」

そんなオチが用意されていようとは。

シーチウでの様々な思い出を残して今日も夜が更けていく。

牛のお乳と私のおっぱい。数は違うけどわたしもまた

生々しい命を与えるお母さんなのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Sítio その2 色のある世界

近所の挨拶回りも一段落し,お昼御飯の頃に地元の祭りに出かける

ことになった。

私達だけだったら絶対に入り込めないようなめちゃくちゃローカル祭りに

連れて行ってもらうことになったのだ。

田舎の道をさらにいけどもいけども山道をいくと、

いきなり現れた何も無い牧場。

場違いに沢山停まっている車を見てようやく会場に着いたという

事がわかった。

さすがローカル祭り、こんな目印もなさそうな所に

いとも当たり前のように人が大勢集まってくる。

そして来てる人たちは地元のカウボーイの格好をしている人が多い。

この祭りは日本でいうところの盆踊り的な感じで

来る人は自分のセイント(神様)を持ってきて、いくつか作られている祭壇に

祀って歌と踊りを捧げる。5〜6カ所にある祭壇は一列に並び、それぞれに

赤や青、緑の色鮮やかなセイントが置かれてあってその前に人が列を作って

ギターの伴奏と独特の高音の歌声で、はもりながら歌を歌い手を叩いて

足踏みをする独特のダンスをする。そうやって自分のもってきたセイントに

みんなで祈り,歌う事で再び神聖なエネルギーをチャージして

また家に連れて帰るらしい。

踊ってるのは殆ど老人で時折孫と見られる子供がいる。

祭りに来る人々の中にはもちろんいい年のお姉ちゃん達もいるけど,

セイントなんか見向きもせず携帯をみながら人待ち顔でその辺を

うろうろしている。

若者達はこの片田舎でこんなに人が集まるチャンスを逃すまいと

いわんばかりにかっこつけて明らかに出会いを、何かが起こるのを待っている

ようだった。

老人達は目に見えぬ世界へ酔いしれるかのように真剣に

セイントへの祈りを捧げ、

かたや若者達は今まさに目の前にいる男と女に焦点を絞っている。

祭りの楽しみ方はそれぞれだ。

そんな対比が面白くどこか日本の夏祭りのような雰囲気を彷彿させる

のだった。

今の季節にしては日差しの強い午後、いよいよ一つ、また一つと

セイントの前に組んでいた列が歌を歌い始める。

日陰になる屋根はここにしかないからか、それともみんなそれほど

熱心なのかセイントの祀られた小屋の下は人であふれていた。

老人たちは目を閉じ,耳をおさえて自分の歌の音程に集中している。

あってるのか、あってないのか分からないほど高音で歌い始める

老人達。ギターがじゃんじゃか鳴り響く。

いたこも真っ青というほど皆、踊りに酔いしれている。

ローカルの人々の中で、いやすくなくともブラジル人のなかで

私達の浮いた存在を感じる。いかにも観光者っぽいみかけの

外人は私達だけだった。時折「何だこのアジア人は?」とう視線を

背中に感じつつブラジル人の友達がローカルの友達に話しかけるのをみて

「あぁ、まぁ仲間か。」的な感じで幸運にもここにいるのを許された

ようだった。

そんなためらいも忘れるほどの熱烈な歌と踊りを眺めていると

踊る人々の個性的な顔に目が止まる。どれ一つ同じ人がいない。

不揃いな個性。歯のないひと、しわの深く刻まれた日に焼けた顔、

牛のような女性、お尻の異様に大きい人、マンガに出てきそうな鼻のおじさん。

まるで写真集のように赴き深い人々の顔。人々の人生がそこに

浮き彫りになっているかのようだった。

どれ一つ同じ顔がないというのは当たり前のようだけど

ここまでずば抜けた個性を見たのはいつぶりだろう?

スーパーに並ぶような単一なみかんではなく不揃いの野性みかん

のような人々。まだ自然の原型がそこにあるかのような

不思議な人たちの集まり。

今や絶滅危惧と思われるほどローカルでオリジナルな人々は

なんだか祭壇のセイントと同じくとてもカラフルだと思った。

そして歌う老人の周りにいるおばちゃん達の色気付いたおしゃれも

まだまだ若者には負けていない。女はいつだって女でいたいのだ。

ここにも色があるようだ。

そんな色々な風景に圧倒されつつ、おじいちゃん達の互いに耳を

抑えながら高音ではもり合うかなり真剣な叫び声に近い歌声

と振動に包まれると不思議と気持ちよかった。

ふと見ると10歳くらいの男の子が先頭に立つギター弾きのおじいさんに

習いながら自分も伴奏のギターを誇らしげにひいていた。きっと

昔からずっとこの祭りにでておじいさん達を見ていたのだろう。そして

今日とうとう自分もこの祭りの列に加わる事が許されたのだろう。

この地域の歴史と,人々の暮らしと繰り返されるつながりを

感じるようなお祭り。

その音のただ中に挟まれ私もセイントと同じようにりチャージされた

気分になった。世界には色があふれてるんだ。

 

さて、踊りも一段落して周りをみるとお祭りらしく昼食が振る舞われて

いた。

話にきくとその日はお祭りの為に牛が2頭殺されたらしい。

牛2頭。みんなが食べる為に締めたのだ。

私は普段は菜食だがこの日は皆と同じ物を食べた。フェジャンオという

豆と牛の臓物の煮込み、肉とジャガイモの煮込み、御飯、なにやら

ぐつぐつ煮えてるでかい鍋。

ぞっとするほど大量の肉と生々しいエネルギーに圧倒されながらも

そこで生きる人々がそこであるがままに料理し、食べ、わかちあう

何かがそこにあった。

肉の味、料理の味、命の味。

味は塩味かどうかというより、肉味かどうかというよりも

エネルギーなんだと思った。

生々しい命の味。強い命の味。牛が私達にくれた味だった。

個性的な命を彷彿させるブラジルのローカルの人々の命と

今まさにここで命を与えてくれた牛の命と,全てが

生々しくいかにも生きていて、時に気持ち悪く

時に華やかで暖かく、生きるという事の本質を

目の前に突きつけられたような気がしたのだった。

そのあまりの衝撃に普段は何でも食べられる長女はお皿を

手にする事すらできず、ただその風景をじっと見つめ

その場を早く立ち去りたいという気持ちを抱いているようだった。

 

こうして照り付ける太陽の中、あの祈りの音と足踏みの振動が

鳴り響く中、人々の雑踏の中で私達は本物の命に本当のブラジルに

出会った気がしたのだった。