Mutti!!

さすがベルリンは街のそこここで素敵でおしゃれなお母さんを沢山見かけ

ます。そしてお父さんが一人でベビーカーを押している姿がそここで見られます。

これはドイツにきて私のカルチャーショック=)

公園に行くと半分からそれ以上の割合でお父さんが子供を連れてる。しかも

結構いかついタトゥだらけのお父さんとかも一人で楽し気に子供をつれてる=)

なんか微笑ましいでしょ。

生まれて間もないであろうちっちゃ〜い赤ちゃんもお父さんのおなかにしっかり

抱っこひもでくくられてお母さんなしでいるのです。

すごいでしょ?すごいよね?赤ちゃんもぜんぜんお父さんに慣れてて泣いてないの。

日本ではイクメンが流行ってるというけどベルリンはそれ以上にイクメンが定着

している模様。

だいたいベビーカーを押してるお父さんはスマホ片手に歩いてたり、公園のベンチで

コーヒー飲みながら赤ちゃんを見てたりするんですけどね。時にはタバコを

すいながら、なんてお父さんもいますけど。

そうそう。ベルリンはすごいタバコ大国でしてどこでもみんなタバコをすっています。

今時先進国でこんなにタバコを吸う国があったのか!と驚くほどに男も女も、

老いも若きもカフェで、芝生で、公園で道ばたでどこでもタバコを吸っているのです。

ベルリンではこれも一つのファッションのようになってるのでしょう。

これもまた私のカルチャーショックではありましたが。

それでもなんでもなんだか街を行き交うお父さんお母さんをみてるだけでも

結構楽しめちゃうベルリンライフ。お子さんの格好も可愛かったり、お母さんも

すごくおしゃれだったり。なかなか勉強にもなるのです。

 

そんなベルリンの素敵なママや働くママなどの情報満載のサイトHuptstadmuttiにて

街角の公園でインタビューを受けた記事がアップされていました。

よかったらご覧遊ばせ。かなり「素」の私がそこにおります=)

この時、たまたま初めていった公園で子供と遊んでると、双子のお子さんを

連れたお母さんがちょいと目を離したすきにもう一人のお子さんが

よちよち歩きで鳩を追いかけて夢中になって公園の遊具に激突。

見ていたこちらが「はっ」と息をのんでしまうほど痛そうに頭をうってしまいました。

おもわずバッグからレメディをとりだしてそのお母さんにアーニカをさし

だすとちょっと戸惑ってらしたけど、周りのお母さんからも「良いアイデアだと

おもうわ。」と言われて安心したのかレメディをお子さんに飲ませていました。

ホメオパシーを普通に差し出しても皆さん驚かないのですね、さすがドイツ!

ともあれその様子をみてらしたお母さんのひとりがこの記事を書いてくれました。

そのお母さんもおしゃれなお姉ちゃんみたいなひとで、お子さんを連れたらしたの

だけど、すかさずインタビューをはじめるとレコーダーを取り出して取材をしカメラで

写真をとって。原稿もメモをして。と働くママの顔に。

その自然体な仕事ぶりが素敵だなぁと思いましたよ。

子供がいてもおしゃれに、楽しく、子供と一緒にできることをできるようにやる。

色んなインスパイアをくれるベルリンのママ達に乾杯!

旬と野菜の考察

台所で旬を感じるのが私は好きだ。

春先の息吹から苦みを運んで来る山菜達

初夏のさわやかな緑のお豆達にあの青々しい梅。

真夏のはじけるような夏野菜に

ほっこりしっくり落ち着きをみせる秋の芋栗なんきん。

滋味深い冬野菜たち。

それに季節折々の魚介類から海草類。

それらを時に茹で、時に油で揚げ、煮しめ、焼きこがし。

手を変え品をかえ私達の食卓を賑わしてくれる旬の食べ物たち。

あぁ日本の食卓はなんと豊かなのでしょう。

外国に暮らす様になって特に私はこの季節の移ろい、旬というものが

愛おしく、それに伴う日本の調理の奥深さをありがたく思う様になった。

それと同時に、このような旬という移ろいがそれぞれの国では

どのように楽しまれているのか、親しまれているのか、というのを

知りたいとおもうようになった。

 

さて、ドイツでは一体どうなっているのだろうか。

ちょうど春を迎えたドイツ。とおもった矢先には既に初夏の風ふいている。

わたしには冬〜初夏の変化が急だったように思う。これは今年だけだろうか。

春に一期に地面が緑になったとおもうと今や木々は若草を

通り越して繁る緑に包まれている。こんな風に暖かくなると体は

緩みたくなる。こんなとき日本なら春の山菜たちが体を解放するのに

助けになるのだけど。と思いドイツには山菜がないのかと思い当たる。

そうなのだ。ドイツにはどうやら山菜はない。まず山自体がそこここに

ある訳ではないので山菜はない。地面をみるとなにか食べられそうな草は

ないのか?と思うけれどつくしやのびるはベルリンではみつけ

られなかった。

自然から与えられる恵みをうまく食べて、日々の健康を保つ智慧は

きっとどの国にもあるはずだ。だからきっとドイツにもなにか季節の

恵みがあるはずだとおもい辺りを見回す。

ちょうどドイツの郊外にある夫の祖父の家を訪れ,大きな庭を散策

しているとタンポポがたくさん咲いていた。

種類はわからないけどそこここに咲くタンポポの黄色は野草のように見えた。

柔らかい若草をつんで食べてみるとほろっと苦い。これは食べれるのでは

ないかなぁとぼんやり思う。きっとおひたしなんかにできるんじゃないかと

想像は膨らむ。そういえば以前タンポポの葉をサラダに食べるというのを聞いた

ことがあったのを思い出した。

春先の緑、ほろ苦さという季節の恵みの理にかなったこと。

目が、体が欲するところの全てを自然は与えてくれているというこの奇蹟。

そんなことにはたと行き着く。

その頃ベルリンのカフェやレストランの至る所では白アスパラガスのメニューが

旬のメニューとして出回っていた。やはりドイツにも旬はある。

私は人生で初めて白アスパラガスを食べてみた。

太くしっかりとした外観なのにお皿に乗るとほっとりと柔らかい。

それをバターやクリームのソースと生ハムの塩気で頂く。

これはまるでふろふき大根のような味わいだと思った。

ふろふき大根も柔らかく茹でられた白くやや甘みのある大根を

ゆず味噌など塩気のある調味料でいただく。これは冬のお料理だけど

冬の終わりの頃にこのような甘みのある白いお野菜を食べるのは

冬中に寒さで締まった体をゆっくりとほぐすのに役立つ。

春先の4月でも寒さの厳しい日のあるドイツでは白アスパラは

日本のふろふき大根のような役割があるのではないだろうか。なんて

うんちくを思いつく。また夫が頼んだ白アスパラのスープには

にんにくにも似た香りのグリーンの薬味がかかっていた。

聞くとそれは春に森でとれるニラのような野草だという。

「あるじゃないか、ドイツにも!季節の草を食べる。

そんな習慣がドイツにも!」わたしの心は踊った。

 

わたしは好きなのだ。春が好きなのだ。

山里の春は美しい。そこここに命の芽吹きを、再生を、目覚めを

感じられる。雨が降る毎にあたたかくなる大気。湿り気を帯びて

柔らかくなる土。やさしい若草色のなかに食べることのできる草を

見つけることができる宝探しの季節。

地面を押し上げる筍の穂先はまさに、ここ掘れわんわん。

春はなんてたのしくすてきなのだろう。

そんな命が踊る体験を送った日本での田舎暮らしの日々が白アスパラガスとともに

ここベルリンでよみがえる。世界はつながっている。

春はここにもある。

 

アスパラガスはドイツの山菜だった。そんな考察が信憑性をもってわたしの

頭を駆け巡る。春の苦みとアスパラの苦みが。アスパラの帽子のような穂先と

柔らかな土から顔を出す筍の穂先とがシンクロする。

このシンクロをきっかけにわたしの目はドイツの旬を

日本の旬の記憶を便りに解読しようと試みる。

ルバーブを見る目はもはや日本のふきを見る目になっている。

似ている。似ているじゃないか!!

食べ方は違う、味も違う。

だけど地面からやってくる力が似ているじゃないか!

だから外観もにているのかもしれない。

エネルギーによって形は形成される。

性質は違っても本質が同じならば、、あるいは。。

ドイツと日本に流れるエネルギー。

ドイツ人と日本人は同じようで全く違う。違うようで似ている所もある。

旬を通して人種の違い、国籍の違いという異なりと

それを越えたつながり共通性に思いを馳せる。

野菜も人間もあるいは同じように。。。

 

マクロビオティックを通して台所から自然を見つめてきた。

旬という季節の巡りは自然の摂理を教えてくれた。

まるごと食べることは全体を知る大切さを教えてくれた。

それが今世界に飛び出した私に台所から新しい意味を見いださせる力に

なっている。

日本という部分からでてみれば、私という日本人は世界という

全体の一部なのだけど、世界もまた様々な一部を内包した大きな何かの

一部なのかもしれない。

これは台所を発端にした壮大な物語だ。

 

今ベルリンではプラムやアプリコットが出回っている。

私は再び日本の旬の記憶を頼りにアプリコットで梅干しを作っている。

ドイツにおける梅干し的な食材は一体何になるのだろうか?そんな問いを

掲げながらアプリコットのへたをとる。

するとどこからとも無く子供がやってきて幼い頃からやっていたこの

梅仕事に参加していた。

旬が運んでくるのは味覚だけでなく、家族の思い出でもあるのだ。

さて今年の梅干しはどんな味になるのだろう。ドイツでの記憶がまた一つ

台所から紡がれていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

手料理

新学期が始まって朝は忙しい。

お弁当がいる子、朝食は御飯がいい子、果物が必要な子、

サンドイッチを持っていく子。それぞれの欲求を満たすべく

今日も台所にたつ。

 

子供たちは大きくなるにつれてそれぞれの食の好みや傾向が

はっきりとしてきた。

朝ご飯をたっぷり食べたい子、食べたくない子、パンを食べたい子

果物を食べたい子。おかゆは食べられない子、などなど。

小さい頃はなんでもある程度大人が決めてあげた方が子供が安心して

過ごせる、というのと同じ様に、食事もある程度(いや、我が家は結構

私が決めてしまっていたけど;)「これ食べようね」というかんじで

整えてあげたほうがよい。(と私は思う)そんな風にして朝はおかゆだの

お味噌汁だの,お漬け物だの、青菜の茹でたのだの、と朝食に適している

ものを用意していたものだけど今となっては子供に委ねっぱなしの毎日だ。

「ねぇ今日は何食べるの?」なんてお伺いをたててみたり

「あなたは今日も御飯ですね。」とマンネリ化してしまうこともある。

もちろん「今日はこれですから」と私から決め込むときもある。

子供の頃は季節や子供の様子やお天気までみて献立を決めていたのに

この変わり様。なんだかちょっぴり寂しいのだけど

もう私の料理など期待されてないのではないか、と思うことも

多々ある。

けれど具合が悪そうな時なんかはやはり私の知っている限りの智慧をもって

して「これをお食べよ」と差し出すこともまだある。

あぁ私が作った物を素直に食べてくれていた頃がなつかしい。

「手作りでいいね」なんてよくいわれるのだけど実はその手作りを食べて

くれる子供たちがいたこともありがたいものだったと気がつく。

こうやって私も次第に子離れしていくのだろう。

けれどさて、それでもこれからの子育てに必要な料理というのは

どういうものなのだろうか。

ちょうどそんなことを思っていたときだった。

 

ある朝のこと、毎朝フルーツしか食べないことの多い双子くんたち。

どうせ果物しかたべないから、好きなフルーツを勝手に食べてもらおう

と思ってリンゴやオレンジの入ったかごをテーブルに置いておいた。

すると食いつきが悪い。何も食べないで出て行ってしまうときもあった。

さすがに心配になったのでとりあえず果物を切ってお皿に盛りつけて

置いてみた。するとひとつ、ふたつと手を伸ばしなにかしら

口にいれて出て行く。あるいは御飯はあまり食べたくない様だけど

御飯を小さな俵型のおむすびにしておいておくと、「御飯いらない」と

言っていたにも関わらずやっぱり一つ,二つと口に放り込んで

出て行くのだった。

これはいかに。

 

またあるときのこと。

朝いつもならしっかり朝食を食べるはずの長女が寝坊したのか

台所にやってこない。お茶碗に御飯をよそって箸を並べつつ

お弁当を包み朝ご飯にやってくるのを待っていた。遅刻ぎりぎりの

時間にやってきた長女に「ほら、急いでお食べ。御飯よそっといたよ」

と言うと「あ〜今日は梅干しのおむすびがいい。」と言った。

どうも宿題で夜遅くまでおきてた長女は随分つかれた様子だった。

ともかく何か食べさせてから学校に行かせないと,と思い

ささっと御飯をおむすびにする。

おむすびを結びながらなんとも言えない気持ちになった。

もしこれがパンだったらサンドイッチということになるのだろう。

だけどサンドイッチと決定的に違うのはおむすびには何か

特別な何か、をこめることが出来ることじゃないかと感じたのだった。

祈り、愛?言葉にするとなんて陳腐なのだろう。けれど。。

おむすびで有名な初女さんという方がいらしたけれど、その方も

たしかおむすびのことを言ってらした。何て言ってらしたのだろう?

今からでも本を買って読んでみようか。。ともあれ私はそれまで

おむすびのすごさを心の底から実感はしていなかったのだった。

でもその日、台所であわただしくおむすびを結んでいたときに

すとんと心の腑におちた。「おむすびってすごい」

もちろんサンドイッチでも心をこめることはできる、祈りを込める

ことはできるだろう。だからサンドイッチはすごくなくておむすびは

すごい、なんていう比較や勝ち負けをするつもりはない。

ただ単純にわたしが紡いできた毎日の中で初めて心の底から

おむすびを作ってあげられることが嬉しく、ありがたく、それを

食べてもらいたいと、大げさに言えばこれさえ食べていればこの子は

大丈夫だと思わしめるほどの実感を抱いたのだった。

そして、これこそがこれからの私に求められる料理なのだろうと思ったの

だった。いや、これからの私だけでなくても誰にでも出来る誰にも

必要な料理というのはこういうことではないのか?

煮物ができるとか、みそ汁が作れるとか、漬け物を漬けるとか

そういうことを越えておむすびなのだ。

いままでさんざんいろいろな料理をしてきて、色々な食事法を

取り入れてみて、その末にたどり着いているのは想いを込めた料理。

それがなければ料理というのはただの実験の結果のようなものだ。

料理を通して、食べ物を、食べるという行為を通してわたしたちは日々

何を受け取り、何を育てているのだろう。

料理と調理。

リンゴ一つ、切ってお皿に出してあげる。

おむすび一つ、手と手の間で結んで持たせる。

これも立派な料理で調理なんだ。

たったそれだけのことで、子供は食べる。子供たちは育つ。

たったそれだけのことがこれだけ大切だと感じたことはいままでなかった

ように思うのは、私と子供たちとの距離がかわり、私が子供たちに

してやれることがかわってきた今だからなのかもしれない。

 

そういえば辰巳芳子さんがおっしゃっていた言葉を思い起こす。

「食べつかせる」

ご病気でらしらお父様になんとか食べていただこうとして辰巳さんご自身が

想い、考え調理なさって作ったお料理の数々があったそうな。

私の場合はそんな大それたことではないけれど。

お年を召した方やご病気の方、幼子、という気をかけてあげなければ自分で

食べられない人に向けてだけでなく、いよいよ食べ盛り、いよいよ

自分勝手に生きたい大きな子供たちにこそのびのびと食べつかせたい。

肉だとか,野菜だとか、栄養だとか、何を食べるとかだけでなく

たった少しの手間をかける。

手を加えるという調理法をもってわたしはこれからも

手料理の道を進みたい。

 

春分

春分。

時間が入れ替わる時。

 

ドイツにやってきて5ヶ月。季節は秋から冬を乗り越えて春へ。

そして子供たちが全員ここに揃ってから3ヶ月。子供は5人から6人へ。

あっという間のこの時間に気がつけば沢山の変化が

日々少しずつ少しずつ訪れていたわけで。

「何もしてないのに…」と想いながら焦るような気持ちで過ぎてく日々でも

何もしてない訳でも、何も起こってない訳でもないという

当たり前のことを思いだすのにはやはり目に見えるなにかが欲しい訳で。

春分。

ベルリンの寒々とした景色にもふと視線を落とせばそこここにクロッカスが

黄色や紫の花を咲かせ、晴れた日曜日には日向に人々が集まり

まるで海辺の街の野良猫の如くは微笑ましくもあり。

Spring has come.

 

おそらく今回はうんと早いだろうと思われた双子の言語取得。

日本からブラジルのときは6ヶ月を過ぎた頃。

そう、丁度今のように3月だった。

双子の9歳の誕生日を境にめきめきポルトガル語を話す

ようになったのだった。そう、それはまるでいつしか

コップに水が満ち溢れ出てくるような具合だった。

そして今。既にドイツ語も彼らの中で満ちてきたようだ。

ついおとといのこと、双子は普段ポルトガル語で会話をしているのだが

「ねぇ,見て!」という意味で「Olha isso!」と言う所を

ぽろっと「Guckt mal!」とドイツ語で言っていた。

芽吹きの時。そう思った。

いよいよ芽吹いてきた新しい音。新しい世界。

春と訪れとともに、またこの3月に。

 

ブラジルとは違う日々がまたやってくる。

新しい時間が始まるのだ。

春がまたやってきた。出会いと始まりを連れてやってきた。

この気持ちが3月の気持ちなんだろう。

最後の出産

あっという間に6人目の赤ちゃんを産んでから一ヶ月が過ぎてしまった。

あの感動的な、あの神秘的な、あの懐かしいお産の余韻と

そこにたどり着くまでの数奇な道のりの記憶が

消えてしまうまえにここに何かを記しておきたくなり

かすかな残香を辿りながらあの日を思い出そうとおもう。

 

おそらくこれが人生最後の妊娠、出産になるだろう。

そういう予感と決意のなか6人目の赤ちゃんはドイツで誕生すること

になった。

長女の出産から実に12年ぶりの妊娠だった5人目の赤ちゃんを

おなかに抱え臨月でブラジルに引っ越しをした前回の出産。

それに引き続き今回は次女の出産からまた干支を一回りしての

妊娠だった。しかも出産予定日は長女のそれと同じという

なんとなく意味深で不思議なタイミングでの妊娠だった。

私はブラジルでの大自然のなか家族に囲まれての自宅出産の幸せが

忘れがたく今回も絶対自宅出産を、と思っていた。

そして今回は育児第二ラウンドまっただ中の疲れもあるし

高齢出産と世に呼ばれる年齢に達していたこともありドイツへの

引っ越しは以前よりうんと余裕をもって妊娠7ヶ月のころにした。

前から考えれば余裕のよっちゃんなタイミングだ。そのうえ

ドイツにいけば保険もある、病院もある、救急車もすぐ来る。

万全の体勢での出産。

きっとなにもかもさくさくと簡単に安全にすすむのだろう、

名付けてドイツでらくらく出産プラン。

しかしそう思って引っ越したのは甘かった。

ドイツは今難民問題を抱え役場はいつも大混雑、思った通りに

ことは運ばないし、病院も予約はとれない。

そうこうしているうちに時間はどんどん過ぎ、私はブラジルでたった

一回うけた妊婦検診以来赤ちゃんの様子を体感でしか知らないまま

季節は秋から冬へ。そして臨月に突入しようとしていた。

「そんなはずじゃなかったのに、ドイツランドよ何故に?」

こんな状況を誰が想像しただろう。これじゃまるでブラジルじゃ

ないか。

そんなわけで私のドイツでらくらく出産プランはかなり怪しい

雲行きに包まれていったのだった。

それだけではない、勝手にドイツはナチュラル志向の国だから

自宅出産も簡単に出来るんだろうと思っていたのだけど、おっとどっこい。

もちろん自宅出産は多々存在するのだけど、最近は助産婦さんが

訴訟を起こされることが多く多額の保険金をかけなければならないので

自宅出産をやってくれる助産婦さんがあまりいなくなってしまったと

わかった。その上ベルリンは今子供が増えて手が足りないらしい。

こんな風に夫の母国だからと安心してドイツにのこのこやってきた私は

臨月間近のおなかを抱えてクリスマスも差し迫った頃、妊婦検診も受け

られず助産婦も見つからないままここドイツで赤ちゃんが一体どんな風

にどこで産まれてくるのか想像もつかない状況に陥っていたのだった。

 

ブラジルでは「なるようになるさ」なんて思ってたのに、なぜかドイツは

そんなのんきな考えを抱かせてくれない雰囲気がある。いや、それとも単に

私の頭が固くなったからなのか、それともそれを人は賢さ、と呼ぶのか。

「どうするの?どうなるの?」そう思いながらひたすら産婦人科と助産婦を

探す。それでもチャンスは巡ってこない。そんな日々が続いた時ふと思った。

「これはもうなるように任せたら、なんとかなるんじゃないか。」

どうやらドイツの賢い雰囲気にわたしのケセラセラ精神が勝ってしまったらしい。

自宅出産と決め込んでいたけどどうやら無理そうだからそれならそれで

いいじゃないか。ともかくいつかは何処かで赤ちゃんも生まれてくるから

どこで、だれと、どんな風になんてのはやってくるまで待てばいいじゃないか。

と思うようになった。

やっぱり最後はなるようになるさ、なのだ。

そしてそんな風に夫に話をした次の日に私達は自宅出産をしてくれる助産婦

さんに出会うことになったのだった。

このときばかりはさすがに思った。「おぉ神よ。」

なるようになるのだ。ほんとうにそうなのだ。それでいいのだ。

この時私は出産は総合病院でもどこでも良いと本気で思っていた。もしか

したらこの赤ちゃんにはそれが必要なのかもしれないとも思っていた。

だからわたしの握りしめていた「絶対自宅出産」という願いをすっかり

手放してみたのだった。そうすると答えは向こうから勝手にやってきた。

今回に限らず経験上これはどうやら宇宙の法則らしい。

 

ともあれご縁あって自宅出産の暗雲は晴れ間を見せ始めた。

助産婦さんは私と同じ年の4人子供のいるおかあさんだった。しかも

誕生日は一日違い。これはきっと運命に違いない。

赤ちゃんはそんな素敵な出会いをまた運んできてくれたのだった。

 

年が開けいよいよ出産までのカウントダウンに入る。

外の気温はマイナス10°を下回る日もあった。

寒さで産んでしまいそうな日が続いたりもしたけどまだ産むわけには

いかなった。

なぜなら、我が家の浴室のタイルが工事中でバスタブが使えなかったのだ。

そう。わたしは自宅出産の雲行きが晴れたのをいいことに、欲張って

前からぼんやり願っていた水中出産の可能性についても期待を抱き

始めていたのだった。もちろん、水中出産は私だけの願いではなく今回の

出産に限ってなぜか赤ちゃんがそうしたがってる気がしていたからでも

あったのだけど、これで人生最後の出産と思うと是非試しておきたかった

というのも否めない。ともあれ浴室工事は亀の歩みで進み,いつ終わるのかの

めどが立ったのは予定日のほんの数日前だった。

けれど赤ちゃんというのは賢い。自分がいつどのように産まれようか

考えているんじゃないかと思えてならない。

ちょうど浴室工事が終わった次の日、ベルリンは雪景色だった。

もういつ生まれても良いさ、と思ったわたしは我が家の男の子3人をつれて

雪の公園に遊びに出かけた。そしてそれがわたしの妊婦時代の最後を飾る

一日となったのだった。

 

家に帰って夕飯の支度をしているとなにやらおなかの具合がおかしい。

「来たな。」と心はつぶやいた。

私の頭の中では風林火山の旗を翻し合戦の始まる光景が浮かんでいる。

ホラ貝の笛が鳴り響く。

出産の始まりは戦の始まりのような興奮と緊張に包まれているのだ。

それでもまだ半信半疑でしくしく痛むおなかを抱えながら

七面鳥と野菜のトルコ風トマト煮を作る。陣痛の痛みをベース音のように

低い部分で感じながら肉を切り、野菜を炒める。陣痛の最中に

トルコ料理は悪くない。なぜだかガッツが湧いて来る。できあがった

トマト煮にミントとパセリをたっぷりかけてと細長いぱらぱらした米と

一緒に食べる。腹が減っては戦は出来ぬという言葉を心に刻みながら

ただ黙々と食べる。そして片付ける。着実に近づいてくる何かを感じながら

台所は静けさを取り戻し、きちんと片付いていく。この対比がさらに

何かの始まりを予感させる。

それでもまだ痛みは強くない。夜は少しずつ更けていく。私は時計とにらめっこ

しながらいよいよ助産婦さんを呼ぶ決心をした。

 

そんな風に私は私の内側で合戦を始めようとしていたわけだけど、

子供たちはそんなのおかまいなしで週末の風景を繰り広げていた。

前回ブラジルで出産したときは初めての海外で、新しい家族での

最初の共同作業とも言うべき出産に、どこか皆が一致団結した雰囲気が

あったように思う。

穴があくほどベッドを見つめ手に汗にぎる出産の一幕を固唾を飲んで

見守ってくれた。産まれた時にはみんなが側にいて、みんなで感動を

分かち合った。あぁあの感動よ再び…

そんな淡い期待はあっというまに消え去ることになる。

 

刻々と陣痛は強くなり私の半信半疑も疑いようのない出産の兆しに

ふんどしのひもを締め直すような気持ちになっているのをよそに

子供たちは「あ、赤ちゃん産まれるの?」とまるで「明日は晴れるの?」

的な気分で問いかける。「あ、そういえばまだおなか空いてる〜」とか

夕飯のあとにお食後を催促される。「あの〜ママ赤ちゃん産まれるかもで、

おなか痛いんだけど?」と言ったって「でも痛くなきゃ産まれないんでしょ?」と

助産婦さん並の返答。ええ、確かにそうですけど。

あげくの果てにはかなりいい感じの陣痛の波が来始めている中、

「独眼竜正宗のyou tube見る約束したじゃん〜」といわれ、寝室でわたしの

パソコンに群がる子供たちを横目に私は陣痛の波をやり過ごしていたのだった。

これが子だくさんの現実ってもんだ。

なにが楽しくて陣痛のさなかに自分が子供の頃見てた伊達政宗の時代劇を

見なくてはならないのか。あのブラジル出産の感動を遠い目で懐かしみつつ

パソコンか聞こえて来る時代劇の侍達の声をききながら、あぁ諸行無常。

私の中で起こっていた風林火山の合戦は次第にリアル感を帯び始めて

いったのだった。

 

陣痛のさなか、私をよぶのはyou tubeを見たい子供だけではない。

出産の意味すら知らないブラジルで生まれた一番下のおちびくんはお眠むの

時間になっていて絵本を読んでとせがんでくるし、眠れのうたもうたって

あげた。陣痛の合間に歌う子守唄というのは6人目にして初めてだ。

かなり聞き苦しかったに違いない。私は途中でギブアップし、長女に

寝かしつけをバトンタッチした。

こんな風にブラジル時代とは打って変わって私のことなんぞおかまいなしの

子供たち。自宅出産を経験してたくましくなったのは私だけではなかった様だ。

ともあれ出産が特別なことではないと受け止めるのはそれはそれでいいかと思い

私は私で合戦に取り組んでいくことにした。

 

いや、ここでも一人だけ戦に参加してくれた人がいた。夫だ。

「いよいよか!」と今回も嬉しそうに緊張感を分かち合ってくれるのは

彼だけだった。いそいそと助産婦さんを出迎え、赤ちゃんを迎える支度を

始める手つきも手慣れたもんだった。そして「今日のメニューはどういたしますか?」

的に「今回も胎盤たべるよね?しょうが醤油にする?」なんて気の早い

質問までしてくれたのだった。

 

出産は粛々と進んでいった。陣痛は刻一刻と強く効果的にリズムを刻んで

いった。その度に波を乗り越していく。

呼吸にフォーカスしようと思っても痛くて忘れてしまう。

夫と二人で向かい合って陣痛を乗り越えていく様子を助産婦の

ヤスミンはただじっと側で見守ってくれていた。

何をするでもない、ただ一緒に呼吸をしてくれていた。

音のある深く強い呼吸。

痛みで呼吸を忘れそうになるときに聞こえて来る彼女の呼吸の音。

まるでガネーシャのようにどっしりと落ち着き払った彼女の存在と

呼吸の響きが私を現実に引き戻してくれる。

 

出産への道のりではいつもこの現実と彼方を行き来しているように思う。

激しい痛みの中で、その現実の中で、意識が遠のいていくような中で

意識は私の中心へと深く強く向かっていく。

あるいは、何かを手放すように私の中の一部が痛みによって引き裂かれ

遠のいていくかわりに、私の奥底に眠る何かが目を醒すと言う方が

正しいかもしれない。

痛みの中心へ向かって意識が遠のいていきながら、痛みの中心へ意識を

集中させていく。そこにあるのは確かな命だ。

もう既にその中心にある命をこの世界に連れて来るために、わたしは

痛みの中で呼吸を繰り返す。痛みの中で目をしっかり開いて見つめる

先にヤスミンがいて、夫がいる。けれど焦点があってるのはそこなのに

見つめているのはそこではない。わたしは私の中で産まれようとしている

もうひとつの命を見つめているのだ。

そんなことを6人目にして初めて痛みの中で感じていた。

 

呼吸と音と痛みの波と命を見つめるこのときこそが出産というものなのだ。

わたしはこの痛みと、この瞬間をなんども経験させてもらったのだ。

6人目、これがきっと人生で最後の出産になるだろう。これで私の命が

あるうちに命を産み落とすことはないのだろう。そういう想いがこのように

初めて出産を俯瞰させてくれた。

自分の命の限界を感じながら新しい命を迎えるからだろうか、今回初めて

出産という、命が産まれる場にありながら私は死をも感じている

ことに気がついた。

出産という真剣な命の現場ではひたすら呼吸と鼓動の

もとに生と死とが在る。それも吐息が聞こえそうなほど近くに在る。

そのとき天と地ほどの違いがあるように思われる生と死は

ただそこに並んで、ただ在る。圧倒的な存在感で、かつひそやかに

そこに在る。

それがあの真剣さを生み出すのだろう。

打算も計画もごまかしも効かない大きな自然の働きに飲み込まれて、

生と死の狭間で、現実と彼方を行き来する。

そしてある時一度にこちらがわに戻って来る。産声とともに。

 

わたしは初めて痛みにめげそうになる中でもこのときが

愛おしいと感じた。実際あまりにも痛いので「こんなことどうして

6人分もやろうとおもったんだろ?」と疑問に思うこともあったし、

「もうやめたい!」と思うことも何度もあった。

けれど今回それ以上にわたしは出産という場を愛しく感じた。出産を

してきた自分を愛しく感じた。そしてこうして脈々と命をつないで

きた沢山の出産の場を命のつながりを、こちら側とあちら側との

つながりを改めて希有なものと感じた。

 

そんな風にして痛みのクライマックスを迎えたわたしはとうとう

あの改装したての浴室でバスタブに浸かり初めて赤ちゃんを

水中で産んだ。それは想像を超えて心地よくスムーズだった。

赤ちゃんはやっぱりこれを知っていたんだ、とわたしは思った。

だから浴室工事が終わるまでちゃんと待ってたんだな。と。

 

思いがけず出産は静かに親密な雰囲気の中で終わった。

わたしは生まれたての赤ちゃんを胸に抱きバスタブのまだぬるい

お湯につかったままで安堵の気持ちとともに今までのお産の全てが

走馬灯のようによみがえっていた。

私にとってこれが最後の出産になるんだろう。「お疲れさま自分」

満身創痍にも関わらず満ち足りたこの時間を噛み締めながら

そう心の中でつぶやいた。

まだ若くて何もわからなかった初産のころから今まで6人。

どれもちがったけれど、どんなときも同じ痛みのなかで同じ想いで

皆を産み落としてきたんだ。

命とはなんと尊いものか。なんと美しいものか。

 

赤ちゃんが生まれた時子供たちはもうすっかり眠りについていた。

もし産まれたら起こしてね、と言っていたから産まれてすぐに

夫がみんなを起こしに言ったけど二回起こしても誰も起きてこなかった

ので赤ちゃんは翌朝のサプライズということになった。

次の朝に寝室を訪れた子供は「産まれたの?」と「うん、産まれたよ」そう言うと

「女の子だった?」「女の子だよ。」と私。

「きゃっ!」と喜んで手を合わせて喜んで兄弟に知らせにいったのが

可愛いくて私まで嬉しくなった。

子供たちの一人一人が驚きと喜びではしゃぐ姿はブラジル時代と同じだった。

 

こうしてまた新しい命の物語が始まっている。

毎日はあっという間に過ぎていく。

忘れたくない日々を忘れながら紡いでいる。

けれどきっとこぼれ落ちてしまった毎日は子供たちが拾い上げて

くれているのだろう。そしていつかそれを子供たちが自分の手で

再び紡ぐときが来るのだろう。