お弁当ライフ再び

最近ユニオが保育園のようなところに行く様になり

お弁当をはじめました。

そこではオーガニックのケータリングがランチで出てくるのですが

やはりオーガニックといえども食べ慣れないものがでると子供は

食べないので我が家はお弁当も持たせる事にしました。

お父さんと一緒にお昼御飯を食べられる保育園なので夫弁当も復活。

こちらはとある日のお子ちゃま弁当と夫弁当。

 

ぶつきごはんにゆかり、ごまふりかけ。(大人にはシャケも)

ターキーのグリル(夫にはマッシュルームグリルとマスタードを添えて)

キャベツと若芽の蒸し炒め

茹でトウモロコシと梅ペースト

デザートのうさぎりんご

 

こんな感じで朝は長女も含め3人分のお弁当の日が始まりました。

長女のお弁当だけ作っていた時には肉食も多いのでお弁当作りは楽

だったのですが、菜食を好む夫と幼児向け弁当も一緒となると

なかなかあたまを使います。

乾物や海藻。野菜の種類、葉もの、根菜、丸いもの、長いものなど

取り入れて、茹でる、炒める、揚げる、和えるなど調理法の

陰陽バランスはどうかしら?などなど。

もちろん日本でのマクロビオティック食材とドイツでは

手に入るものも違いますし、野菜や調味料も違います。

その辺りの工夫もしながら、大人、思春期の女子、幼児では

必要なエネルギーも違うし、栄養素も、求められるものも違う。

そんなこんなを乗り越えて。の弁当。

ガッツリ食べたいけど表向きガッツリ見えない工夫の必要なお年頃の

女子弁。その上フレッシュなフルーツの甘みや野菜が欲しい長女。

しっかり食べたい夫は色んな栄養素と食感が必要なので一番おかずの

バラエティが欲しい人。そして味はしっかり目に。でもそのなかでも

一品は素材の味のするシンプルなおかずを。

(ちなみに、ドイツに来てお魚料理に大根をあわせられない場合

辛みのあるスプラウトが消化を助けるかわりになると気がつきました。

おそらくドイツの気候とあうのでしょう、以来スプラウトは我が家の

冷蔵庫にかなりの頻度で常備されています。)

幼児のお弁当は食べつきやすさ、形の工夫,色の工夫で野菜も食べる様に

甘みと穀物をしっかりとれるように。。などなど。

手前味噌ではありますが以前オーガニックベースで行ったお弁当コースの

内容を思いだしつつ、今は大きくなった四人の子供に作っていた

お弁当も思い出しつつやっております。なかなか楽しいです。

こういうバランスを感じながら作るのがマクロビオティックの料理の

楽しい所そして難しい所かもしれません。

 

ともあれユニオにとっては人生初のお弁当。

お兄ちゃんのおさがりのワッパ弁当を持ってうれしそうに

毎朝出かけていく姿は愛らしく、同時に大きくなったなぁと感動。

ドイツの保育園でも皆さん興味津々の様子。

お弁当って日本の良い文化だなぁと改めて感じている毎日です。

 

 

 

 

 

Mutti!!

さすがベルリンは街のそこここで素敵でおしゃれなお母さんを沢山見かけ

ます。そしてお父さんが一人でベビーカーを押している姿がそここで見られます。

これはドイツにきて私のカルチャーショック=)

公園に行くと半分からそれ以上の割合でお父さんが子供を連れてる。しかも

結構いかついタトゥだらけのお父さんとかも一人で楽し気に子供をつれてる=)

なんか微笑ましいでしょ。

生まれて間もないであろうちっちゃ〜い赤ちゃんもお父さんのおなかにしっかり

抱っこひもでくくられてお母さんなしでいるのです。

すごいでしょ?すごいよね?赤ちゃんもぜんぜんお父さんに慣れてて泣いてないの。

日本ではイクメンが流行ってるというけどベルリンはそれ以上にイクメンが定着

している模様。

だいたいベビーカーを押してるお父さんはスマホ片手に歩いてたり、公園のベンチで

コーヒー飲みながら赤ちゃんを見てたりするんですけどね。時にはタバコを

すいながら、なんてお父さんもいますけど。

そうそう。ベルリンはすごいタバコ大国でしてどこでもみんなタバコをすっています。

今時先進国でこんなにタバコを吸う国があったのか!と驚くほどに男も女も、

老いも若きもカフェで、芝生で、公園で道ばたでどこでもタバコを吸っているのです。

ベルリンではこれも一つのファッションのようになってるのでしょう。

これもまた私のカルチャーショックではありましたが。

それでもなんでもなんだか街を行き交うお父さんお母さんをみてるだけでも

結構楽しめちゃうベルリンライフ。お子さんの格好も可愛かったり、お母さんも

すごくおしゃれだったり。なかなか勉強にもなるのです。

 

そんなベルリンの素敵なママや働くママなどの情報満載のサイトHuptstadmuttiにて

街角の公園でインタビューを受けた記事がアップされていました。

よかったらご覧遊ばせ。かなり「素」の私がそこにおります=)

この時、たまたま初めていった公園で子供と遊んでると、双子のお子さんを

連れたお母さんがちょいと目を離したすきにもう一人のお子さんが

よちよち歩きで鳩を追いかけて夢中になって公園の遊具に激突。

見ていたこちらが「はっ」と息をのんでしまうほど痛そうに頭をうってしまいました。

おもわずバッグからレメディをとりだしてそのお母さんにアーニカをさし

だすとちょっと戸惑ってらしたけど、周りのお母さんからも「良いアイデアだと

おもうわ。」と言われて安心したのかレメディをお子さんに飲ませていました。

ホメオパシーを普通に差し出しても皆さん驚かないのですね、さすがドイツ!

ともあれその様子をみてらしたお母さんのひとりがこの記事を書いてくれました。

そのお母さんもおしゃれなお姉ちゃんみたいなひとで、お子さんを連れたらしたの

だけど、すかさずインタビューをはじめるとレコーダーを取り出して取材をしカメラで

写真をとって。原稿もメモをして。と働くママの顔に。

その自然体な仕事ぶりが素敵だなぁと思いましたよ。

子供がいてもおしゃれに、楽しく、子供と一緒にできることをできるようにやる。

色んなインスパイアをくれるベルリンのママ達に乾杯!

旬と野菜の考察

台所で旬を感じるのが私は好きだ。

春先の息吹から苦みを運んで来る山菜達

初夏のさわやかな緑のお豆達にあの青々しい梅。

真夏のはじけるような夏野菜に

ほっこりしっくり落ち着きをみせる秋の芋栗なんきん。

滋味深い冬野菜たち。

それに季節折々の魚介類から海草類。

それらを時に茹で、時に油で揚げ、煮しめ、焼きこがし。

手を変え品をかえ私達の食卓を賑わしてくれる旬の食べ物たち。

あぁ日本の食卓はなんと豊かなのでしょう。

外国に暮らす様になって特に私はこの季節の移ろい、旬というものが

愛おしく、それに伴う日本の調理の奥深さをありがたく思う様になった。

それと同時に、このような旬という移ろいがそれぞれの国では

どのように楽しまれているのか、親しまれているのか、というのを

知りたいとおもうようになった。

 

さて、ドイツでは一体どうなっているのだろうか。

ちょうど春を迎えたドイツ。とおもった矢先には既に初夏の風ふいている。

わたしには冬〜初夏の変化が急だったように思う。これは今年だけだろうか。

春に一期に地面が緑になったとおもうと今や木々は若草を

通り越して繁る緑に包まれている。こんな風に暖かくなると体は

緩みたくなる。こんなとき日本なら春の山菜たちが体を解放するのに

助けになるのだけど。と思いドイツには山菜がないのかと思い当たる。

そうなのだ。ドイツにはどうやら山菜はない。まず山自体がそこここに

ある訳ではないので山菜はない。地面をみるとなにか食べられそうな草は

ないのか?と思うけれどつくしやのびるはベルリンではみつけ

られなかった。

自然から与えられる恵みをうまく食べて、日々の健康を保つ智慧は

きっとどの国にもあるはずだ。だからきっとドイツにもなにか季節の

恵みがあるはずだとおもい辺りを見回す。

ちょうどドイツの郊外にある夫の祖父の家を訪れ,大きな庭を散策

しているとタンポポがたくさん咲いていた。

種類はわからないけどそこここに咲くタンポポの黄色は野草のように見えた。

柔らかい若草をつんで食べてみるとほろっと苦い。これは食べれるのでは

ないかなぁとぼんやり思う。きっとおひたしなんかにできるんじゃないかと

想像は膨らむ。そういえば以前タンポポの葉をサラダに食べるというのを聞いた

ことがあったのを思い出した。

春先の緑、ほろ苦さという季節の恵みの理にかなったこと。

目が、体が欲するところの全てを自然は与えてくれているというこの奇蹟。

そんなことにはたと行き着く。

その頃ベルリンのカフェやレストランの至る所では白アスパラガスのメニューが

旬のメニューとして出回っていた。やはりドイツにも旬はある。

私は人生で初めて白アスパラガスを食べてみた。

太くしっかりとした外観なのにお皿に乗るとほっとりと柔らかい。

それをバターやクリームのソースと生ハムの塩気で頂く。

これはまるでふろふき大根のような味わいだと思った。

ふろふき大根も柔らかく茹でられた白くやや甘みのある大根を

ゆず味噌など塩気のある調味料でいただく。これは冬のお料理だけど

冬の終わりの頃にこのような甘みのある白いお野菜を食べるのは

冬中に寒さで締まった体をゆっくりとほぐすのに役立つ。

春先の4月でも寒さの厳しい日のあるドイツでは白アスパラは

日本のふろふき大根のような役割があるのではないだろうか。なんて

うんちくを思いつく。また夫が頼んだ白アスパラのスープには

にんにくにも似た香りのグリーンの薬味がかかっていた。

聞くとそれは春に森でとれるニラのような野草だという。

「あるじゃないか、ドイツにも!季節の草を食べる。

そんな習慣がドイツにも!」わたしの心は踊った。

 

わたしは好きなのだ。春が好きなのだ。

山里の春は美しい。そこここに命の芽吹きを、再生を、目覚めを

感じられる。雨が降る毎にあたたかくなる大気。湿り気を帯びて

柔らかくなる土。やさしい若草色のなかに食べることのできる草を

見つけることができる宝探しの季節。

地面を押し上げる筍の穂先はまさに、ここ掘れわんわん。

春はなんてたのしくすてきなのだろう。

そんな命が踊る体験を送った日本での田舎暮らしの日々が白アスパラガスとともに

ここベルリンでよみがえる。世界はつながっている。

春はここにもある。

 

アスパラガスはドイツの山菜だった。そんな考察が信憑性をもってわたしの

頭を駆け巡る。春の苦みとアスパラの苦みが。アスパラの帽子のような穂先と

柔らかな土から顔を出す筍の穂先とがシンクロする。

このシンクロをきっかけにわたしの目はドイツの旬を

日本の旬の記憶を便りに解読しようと試みる。

ルバーブを見る目はもはや日本のふきを見る目になっている。

似ている。似ているじゃないか!!

食べ方は違う、味も違う。

だけど地面からやってくる力が似ているじゃないか!

だから外観もにているのかもしれない。

エネルギーによって形は形成される。

性質は違っても本質が同じならば、、あるいは。。

ドイツと日本に流れるエネルギー。

ドイツ人と日本人は同じようで全く違う。違うようで似ている所もある。

旬を通して人種の違い、国籍の違いという異なりと

それを越えたつながり共通性に思いを馳せる。

野菜も人間もあるいは同じように。。。

 

マクロビオティックを通して台所から自然を見つめてきた。

旬という季節の巡りは自然の摂理を教えてくれた。

まるごと食べることは全体を知る大切さを教えてくれた。

それが今世界に飛び出した私に台所から新しい意味を見いださせる力に

なっている。

日本という部分からでてみれば、私という日本人は世界という

全体の一部なのだけど、世界もまた様々な一部を内包した大きな何かの

一部なのかもしれない。

これは台所を発端にした壮大な物語だ。

 

今ベルリンではプラムやアプリコットが出回っている。

私は再び日本の旬の記憶を頼りにアプリコットで梅干しを作っている。

ドイツにおける梅干し的な食材は一体何になるのだろうか?そんな問いを

掲げながらアプリコットのへたをとる。

するとどこからとも無く子供がやってきて幼い頃からやっていたこの

梅仕事に参加していた。

旬が運んでくるのは味覚だけでなく、家族の思い出でもあるのだ。

さて今年の梅干しはどんな味になるのだろう。ドイツでの記憶がまた一つ

台所から紡がれていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

手料理

新学期が始まって朝は忙しい。

お弁当がいる子、朝食は御飯がいい子、果物が必要な子、

サンドイッチを持っていく子。それぞれの欲求を満たすべく

今日も台所にたつ。

 

子供たちは大きくなるにつれてそれぞれの食の好みや傾向が

はっきりとしてきた。

朝ご飯をたっぷり食べたい子、食べたくない子、パンを食べたい子

果物を食べたい子。おかゆは食べられない子、などなど。

小さい頃はなんでもある程度大人が決めてあげた方が子供が安心して

過ごせる、というのと同じ様に、食事もある程度(いや、我が家は結構

私が決めてしまっていたけど;)「これ食べようね」というかんじで

整えてあげたほうがよい。(と私は思う)そんな風にして朝はおかゆだの

お味噌汁だの,お漬け物だの、青菜の茹でたのだの、と朝食に適している

ものを用意していたものだけど今となっては子供に委ねっぱなしの毎日だ。

「ねぇ今日は何食べるの?」なんてお伺いをたててみたり

「あなたは今日も御飯ですね。」とマンネリ化してしまうこともある。

もちろん「今日はこれですから」と私から決め込むときもある。

子供の頃は季節や子供の様子やお天気までみて献立を決めていたのに

この変わり様。なんだかちょっぴり寂しいのだけど

もう私の料理など期待されてないのではないか、と思うことも

多々ある。

けれど具合が悪そうな時なんかはやはり私の知っている限りの智慧をもって

して「これをお食べよ」と差し出すこともまだある。

あぁ私が作った物を素直に食べてくれていた頃がなつかしい。

「手作りでいいね」なんてよくいわれるのだけど実はその手作りを食べて

くれる子供たちがいたこともありがたいものだったと気がつく。

こうやって私も次第に子離れしていくのだろう。

けれどさて、それでもこれからの子育てに必要な料理というのは

どういうものなのだろうか。

ちょうどそんなことを思っていたときだった。

 

ある朝のこと、毎朝フルーツしか食べないことの多い双子くんたち。

どうせ果物しかたべないから、好きなフルーツを勝手に食べてもらおう

と思ってリンゴやオレンジの入ったかごをテーブルに置いておいた。

すると食いつきが悪い。何も食べないで出て行ってしまうときもあった。

さすがに心配になったのでとりあえず果物を切ってお皿に盛りつけて

置いてみた。するとひとつ、ふたつと手を伸ばしなにかしら

口にいれて出て行く。あるいは御飯はあまり食べたくない様だけど

御飯を小さな俵型のおむすびにしておいておくと、「御飯いらない」と

言っていたにも関わらずやっぱり一つ,二つと口に放り込んで

出て行くのだった。

これはいかに。

 

またあるときのこと。

朝いつもならしっかり朝食を食べるはずの長女が寝坊したのか

台所にやってこない。お茶碗に御飯をよそって箸を並べつつ

お弁当を包み朝ご飯にやってくるのを待っていた。遅刻ぎりぎりの

時間にやってきた長女に「ほら、急いでお食べ。御飯よそっといたよ」

と言うと「あ〜今日は梅干しのおむすびがいい。」と言った。

どうも宿題で夜遅くまでおきてた長女は随分つかれた様子だった。

ともかく何か食べさせてから学校に行かせないと,と思い

ささっと御飯をおむすびにする。

おむすびを結びながらなんとも言えない気持ちになった。

もしこれがパンだったらサンドイッチということになるのだろう。

だけどサンドイッチと決定的に違うのはおむすびには何か

特別な何か、をこめることが出来ることじゃないかと感じたのだった。

祈り、愛?言葉にするとなんて陳腐なのだろう。けれど。。

おむすびで有名な初女さんという方がいらしたけれど、その方も

たしかおむすびのことを言ってらした。何て言ってらしたのだろう?

今からでも本を買って読んでみようか。。ともあれ私はそれまで

おむすびのすごさを心の底から実感はしていなかったのだった。

でもその日、台所であわただしくおむすびを結んでいたときに

すとんと心の腑におちた。「おむすびってすごい」

もちろんサンドイッチでも心をこめることはできる、祈りを込める

ことはできるだろう。だからサンドイッチはすごくなくておむすびは

すごい、なんていう比較や勝ち負けをするつもりはない。

ただ単純にわたしが紡いできた毎日の中で初めて心の底から

おむすびを作ってあげられることが嬉しく、ありがたく、それを

食べてもらいたいと、大げさに言えばこれさえ食べていればこの子は

大丈夫だと思わしめるほどの実感を抱いたのだった。

そして、これこそがこれからの私に求められる料理なのだろうと思ったの

だった。いや、これからの私だけでなくても誰にでも出来る誰にも

必要な料理というのはこういうことではないのか?

煮物ができるとか、みそ汁が作れるとか、漬け物を漬けるとか

そういうことを越えておむすびなのだ。

いままでさんざんいろいろな料理をしてきて、色々な食事法を

取り入れてみて、その末にたどり着いているのは想いを込めた料理。

それがなければ料理というのはただの実験の結果のようなものだ。

料理を通して、食べ物を、食べるという行為を通してわたしたちは日々

何を受け取り、何を育てているのだろう。

料理と調理。

リンゴ一つ、切ってお皿に出してあげる。

おむすび一つ、手と手の間で結んで持たせる。

これも立派な料理で調理なんだ。

たったそれだけのことで、子供は食べる。子供たちは育つ。

たったそれだけのことがこれだけ大切だと感じたことはいままでなかった

ように思うのは、私と子供たちとの距離がかわり、私が子供たちに

してやれることがかわってきた今だからなのかもしれない。

 

そういえば辰巳芳子さんがおっしゃっていた言葉を思い起こす。

「食べつかせる」

ご病気でらしらお父様になんとか食べていただこうとして辰巳さんご自身が

想い、考え調理なさって作ったお料理の数々があったそうな。

私の場合はそんな大それたことではないけれど。

お年を召した方やご病気の方、幼子、という気をかけてあげなければ自分で

食べられない人に向けてだけでなく、いよいよ食べ盛り、いよいよ

自分勝手に生きたい大きな子供たちにこそのびのびと食べつかせたい。

肉だとか,野菜だとか、栄養だとか、何を食べるとかだけでなく

たった少しの手間をかける。

手を加えるという調理法をもってわたしはこれからも

手料理の道を進みたい。

 

春分

春分。

時間が入れ替わる時。

 

ドイツにやってきて5ヶ月。季節は秋から冬を乗り越えて春へ。

そして子供たちが全員ここに揃ってから3ヶ月。子供は5人から6人へ。

あっという間のこの時間に気がつけば沢山の変化が

日々少しずつ少しずつ訪れていたわけで。

「何もしてないのに…」と想いながら焦るような気持ちで過ぎてく日々でも

何もしてない訳でも、何も起こってない訳でもないという

当たり前のことを思いだすのにはやはり目に見えるなにかが欲しい訳で。

春分。

ベルリンの寒々とした景色にもふと視線を落とせばそこここにクロッカスが

黄色や紫の花を咲かせ、晴れた日曜日には日向に人々が集まり

まるで海辺の街の野良猫の如くは微笑ましくもあり。

Spring has come.

 

おそらく今回はうんと早いだろうと思われた双子の言語取得。

日本からブラジルのときは6ヶ月を過ぎた頃。

そう、丁度今のように3月だった。

双子の9歳の誕生日を境にめきめきポルトガル語を話す

ようになったのだった。そう、それはまるでいつしか

コップに水が満ち溢れ出てくるような具合だった。

そして今。既にドイツ語も彼らの中で満ちてきたようだ。

ついおとといのこと、双子は普段ポルトガル語で会話をしているのだが

「ねぇ,見て!」という意味で「Olha isso!」と言う所を

ぽろっと「Guckt mal!」とドイツ語で言っていた。

芽吹きの時。そう思った。

いよいよ芽吹いてきた新しい音。新しい世界。

春と訪れとともに、またこの3月に。

 

ブラジルとは違う日々がまたやってくる。

新しい時間が始まるのだ。

春がまたやってきた。出会いと始まりを連れてやってきた。

この気持ちが3月の気持ちなんだろう。