Sítio その2 色のある世界

近所の挨拶回りも一段落し,お昼御飯の頃に地元の祭りに出かける

ことになった。

私達だけだったら絶対に入り込めないようなめちゃくちゃローカル祭りに

連れて行ってもらうことになったのだ。

田舎の道をさらにいけどもいけども山道をいくと、

いきなり現れた何も無い牧場。

場違いに沢山停まっている車を見てようやく会場に着いたという

事がわかった。

さすがローカル祭り、こんな目印もなさそうな所に

いとも当たり前のように人が大勢集まってくる。

そして来てる人たちは地元のカウボーイの格好をしている人が多い。

この祭りは日本でいうところの盆踊り的な感じで

来る人は自分のセイント(神様)を持ってきて、いくつか作られている祭壇に

祀って歌と踊りを捧げる。5〜6カ所にある祭壇は一列に並び、それぞれに

赤や青、緑の色鮮やかなセイントが置かれてあってその前に人が列を作って

ギターの伴奏と独特の高音の歌声で、はもりながら歌を歌い手を叩いて

足踏みをする独特のダンスをする。そうやって自分のもってきたセイントに

みんなで祈り,歌う事で再び神聖なエネルギーをチャージして

また家に連れて帰るらしい。

踊ってるのは殆ど老人で時折孫と見られる子供がいる。

祭りに来る人々の中にはもちろんいい年のお姉ちゃん達もいるけど,

セイントなんか見向きもせず携帯をみながら人待ち顔でその辺を

うろうろしている。

若者達はこの片田舎でこんなに人が集まるチャンスを逃すまいと

いわんばかりにかっこつけて明らかに出会いを、何かが起こるのを待っている

ようだった。

老人達は目に見えぬ世界へ酔いしれるかのように真剣に

セイントへの祈りを捧げ、

かたや若者達は今まさに目の前にいる男と女に焦点を絞っている。

祭りの楽しみ方はそれぞれだ。

そんな対比が面白くどこか日本の夏祭りのような雰囲気を彷彿させる

のだった。

今の季節にしては日差しの強い午後、いよいよ一つ、また一つと

セイントの前に組んでいた列が歌を歌い始める。

日陰になる屋根はここにしかないからか、それともみんなそれほど

熱心なのかセイントの祀られた小屋の下は人であふれていた。

老人たちは目を閉じ,耳をおさえて自分の歌の音程に集中している。

あってるのか、あってないのか分からないほど高音で歌い始める

老人達。ギターがじゃんじゃか鳴り響く。

いたこも真っ青というほど皆、踊りに酔いしれている。

ローカルの人々の中で、いやすくなくともブラジル人のなかで

私達の浮いた存在を感じる。いかにも観光者っぽいみかけの

外人は私達だけだった。時折「何だこのアジア人は?」とう視線を

背中に感じつつブラジル人の友達がローカルの友達に話しかけるのをみて

「あぁ、まぁ仲間か。」的な感じで幸運にもここにいるのを許された

ようだった。

そんなためらいも忘れるほどの熱烈な歌と踊りを眺めていると

踊る人々の個性的な顔に目が止まる。どれ一つ同じ人がいない。

不揃いな個性。歯のないひと、しわの深く刻まれた日に焼けた顔、

牛のような女性、お尻の異様に大きい人、マンガに出てきそうな鼻のおじさん。

まるで写真集のように赴き深い人々の顔。人々の人生がそこに

浮き彫りになっているかのようだった。

どれ一つ同じ顔がないというのは当たり前のようだけど

ここまでずば抜けた個性を見たのはいつぶりだろう?

スーパーに並ぶような単一なみかんではなく不揃いの野性みかん

のような人々。まだ自然の原型がそこにあるかのような

不思議な人たちの集まり。

今や絶滅危惧と思われるほどローカルでオリジナルな人々は

なんだか祭壇のセイントと同じくとてもカラフルだと思った。

そして歌う老人の周りにいるおばちゃん達の色気付いたおしゃれも

まだまだ若者には負けていない。女はいつだって女でいたいのだ。

ここにも色があるようだ。

そんな色々な風景に圧倒されつつ、おじいちゃん達の互いに耳を

抑えながら高音ではもり合うかなり真剣な叫び声に近い歌声

と振動に包まれると不思議と気持ちよかった。

ふと見ると10歳くらいの男の子が先頭に立つギター弾きのおじいさんに

習いながら自分も伴奏のギターを誇らしげにひいていた。きっと

昔からずっとこの祭りにでておじいさん達を見ていたのだろう。そして

今日とうとう自分もこの祭りの列に加わる事が許されたのだろう。

この地域の歴史と,人々の暮らしと繰り返されるつながりを

感じるようなお祭り。

その音のただ中に挟まれ私もセイントと同じようにりチャージされた

気分になった。世界には色があふれてるんだ。

 

さて、踊りも一段落して周りをみるとお祭りらしく昼食が振る舞われて

いた。

話にきくとその日はお祭りの為に牛が2頭殺されたらしい。

牛2頭。みんなが食べる為に締めたのだ。

私は普段は菜食だがこの日は皆と同じ物を食べた。フェジャンオという

豆と牛の臓物の煮込み、肉とジャガイモの煮込み、御飯、なにやら

ぐつぐつ煮えてるでかい鍋。

ぞっとするほど大量の肉と生々しいエネルギーに圧倒されながらも

そこで生きる人々がそこであるがままに料理し、食べ、わかちあう

何かがそこにあった。

肉の味、料理の味、命の味。

味は塩味かどうかというより、肉味かどうかというよりも

エネルギーなんだと思った。

生々しい命の味。強い命の味。牛が私達にくれた味だった。

個性的な命を彷彿させるブラジルのローカルの人々の命と

今まさにここで命を与えてくれた牛の命と,全てが

生々しくいかにも生きていて、時に気持ち悪く

時に華やかで暖かく、生きるという事の本質を

目の前に突きつけられたような気がしたのだった。

そのあまりの衝撃に普段は何でも食べられる長女はお皿を

手にする事すらできず、ただその風景をじっと見つめ

その場を早く立ち去りたいという気持ちを抱いているようだった。

 

こうして照り付ける太陽の中、あの祈りの音と足踏みの振動が

鳴り響く中、人々の雑踏の中で私達は本物の命に本当のブラジルに

出会った気がしたのだった。

 

 

コメントできません。